シネマ5代表田井肇さん

「シネマ5」代表。1956年岐阜市生まれ。大分に移り住み、76年から始まった湯布院映画祭の立ち上げに加わる。以後13回目まで中心メンバーを務めた後、89年、閉館の瀬戸際にあった「シネマ5」の運営を引き継ぎ、地方都市では困難とされるアート系専門映画館として、その経営を軌道に乗せて現在に至る。本業のかたわら、別府大学の講師として教鞭をとり、朝日新聞(大分県版の木曜日・朝刊)では「シネマわーるど」を連載中という多彩な顔を併せ持つ。現大分県興行組合・理事長。

――:初めまして。今回は色々な思いを語っていただきたいんで、本日はよろしくお願いします。
田井 肇さん(以下、田井):はいどうぞ、宜しくお願いします。
――:来年(2008年)は20年目を迎えるということですね。おめでとうございます。
田井:ありがとうございます。
――:お生まれは大分ですか?
田井:いや、岐阜県です。3歳ぐらいの頃にはすでに別府の浜脇に住んでいたようなんですが、その後に引っ越した北浜からの記憶しかないんです。そして中学校に上がるちょい前ぐらいから、亀川に移ったんですけどね。※浜脇、北浜、亀川はいずれも別府市
――:やっぱり幼い頃から映画が好きで?
田井:う~ん、幼い時って私だけではなく、みなさん映画好きだったでしょうね。僕はまあ・・昭和30年代に少年時代を過ごしていますから・・。昭和33年くらいでいうと、日本の人口が8千万人ぐらいなのに、映画人口は11億人いましたからね、年間一人当たり12~13本は観てたんですよね。だからその頃の日本人は、すごい本数を観てたんですよ。
――:その頃の娯楽って映画がダントツなんでしょうね。
田井:ちなみに今でしたら、一人当たり年間1.5本ぐらいかな?・・ですから、今の10倍ぐらいは観てた計算ですね。物価はどうだったかな・・初任給は、3万あるかないかぐらいだったでしょうか。映画は75円とかね。
――:75円!!
田井:子供は25円とかね。僕が小さい頃は、まだ50銭って単位も通用してましたから。1円の下がね。
――:へぇー。
田井:まあ、誰しも映画に行ってた時代なんですよね。私も親に連れられてよく見に行ってました。で、そのうち、お茶の間にテレビというモノが登場して洋画なんかも放送し始めた。
――:その頃に記憶に残っている映画と言えば何ですか?
田井:記憶に残っていると言えば「鯨神(くじらがみ)」っていう映画ですかね。大映の映画で、勝新太郎と本郷功次郎なんかが出るんですけどね。原作は宇能鴻一郎っていう、のちに、ちょっとエッチな小説で有名になった人なんですけど、この小説で芥川賞を受賞しましたからね。
――:原作はどういった内容で?
田井:これは鯨を捕る人達の話なんですね。「白鯨」ってあるじゃないですか?(ハーマン・メルヴィルの長編小説。1956年映画化)あれの日本版みたいなお話なんですよね。荒波の中で鯨を捕獲するっていう・・非常に強烈な映像でしたね・・だけどね・・何故だか、大半の内容は記憶に残ってません。ただ、すごい・・強烈な印象があって、家に帰って漫画に書いた記憶があります。
――:子供心に感動したんですね。
田井:感動っていうのとは、ちょっと違いますね・・何かこう・・気持ちの奥に引っ掛かちゃってる、と。そうゆう経験ですよね、子供心に感じる映画というのは。・・それに、あの時代は、大人が観る映画に子供を連れて行くっていうのは、当たり前でしたので、貴重な体験でしたよ。知らない「大人の世界」が見えてくる――。これは今となって振り返れば、大変貴重な体験だったなと。今の親だって、大人の映画を子供に観せた方がいいですよ、絶対に。僕はそう思う。今は逆で、親が子供に合わせちゃう。「ポケモン」や「ドラえもん」なんか子供の為に行っちゃう。まあ大人が観ても楽しいかもしれないですけどね。・・とにかく映画は好きだったんで、気がついたら映画館で迷子になったりして、父ちゃん、母ちゃんから「お前、何してたんだ!」なんて怒られたりしてましたよね。
――:そうなんですか(笑)。
田井:うちの母親は明治の生まれなんですけど・・生きていれば96歳かな?まあよく連れられて映画館に足を運んでたなあ・・・。彼女は、大川橋蔵とか、東千代之介なんかが好きでね・・東映ですね、観てたのは。しかし、当時の彼らは一線級ではないんですよね。一線級の俳優っていったら片岡千恵蔵とか市川右太衛門とかそうゆう人ですから。ちょっと光ってる新人っていう感じでしょうか。大スターじゃないんですよね。
――:ええ。
田井:だからうちの母親は、ど真ん中で売れている俳優よりちょっと外れた人が好きだったんでしょう。相撲で言えば「大鵬より柏戸」ってタイプの人ですから。