シネマ5代表田井肇さん


――:ストレートにはいかないと。
田井:だからって訳なのでしょうかね、私自身、性格的に少しひねているというか・・マイナー好みだったりとか。人とは違うところに興味を持っていましたね。
――:なるほど。そういった自覚はありましたか。
田井:ありましたねー。例えば、1970年に中学校の修学旅行で大阪万博に行ったんですよ。万博の最大のハイライトは、アメリカ館の「月の石」(アポロ11号が持ち帰った石を展示)だったんですが、私は誰も知らないアフリカのコートジボワール館とか・・そんなところばっかり行ってましたね・・だから映画もそうですが、どこかメインストリームにあるメジャーなものよりもマイナーな映画というか、そういったものが好きでしたねぇ。
――:ええ、お気持ちはわかります(笑)。
田井:そんな感じで少年時代を過ごして、高専(大分工業高等専門学校)に入ったわけですが、うちは貧乏だったし、授業料が安いことを優先してね。親には「お前に大学は行かせられない、行くなら防衛大学だけだ」って言われててね。あそこは授業料払わなくていいでしょ?だから、「防衛大学しか行けないのかなぁ」って思ってて。でも、まかり間違って官僚か何かになってたら、今頃国会で「接待うけました」とか言ってたかもしんないけど(笑)。
――:あはは、旬な話題ですね(笑)。
田井:まあ当時、僕はそこそこ勉強ができましたんで、大体はこなしていけてたんですよ。あの頃は5ランクでしたけど、体育か音楽だけが4で、それ以外は5でしたから。
――:それは優秀じゃないですかー。
田井:いやいや、皆そんな感じでしたよ。だから何系が得意?とか言われるんですけど、答えようがない、みんな得意だから。
――:ある意味、嫌みじゃないですか(笑)。
田井:嫌み?嫌みに聞こえたらごめんなさい。でも普通にそうだったんですよ。
――:さぞかしモテたでしょう?勉強もスポーツもできて。
田井:そんな事聞かれるとは思わなかった(笑)。まあどっちかというと、全くモテなかったですね(ハッキリと)。自分が思うようにはなりませんでした。よくフラレてましたよ。
――:そうですかー?(笑)でも彼女を連れて映画に行ってたでしょ?
田井:僕はね、16歳の頃から日活ロマンポルノにハマってましたから。だから、そんなところ連れて行ける訳ないでしょ(笑)。一人で映画評論を読んでは、あーでもないとかこーでもないとか言ってましたんで、周りから見ればヘンな奴だったんじゃないでしょうか。
――:その頃は、年間何本ぐらいの映画を観ていたんですか?
田井:100本ぐらいじゃない?
――:100本もですか!
田井:う~ん、そんなもんでしたね、そんなにビックリする数じゃないですけど。
――:でも、周りには居なかったでしょー?そんなに観てる人は。
田井:ああ、そうですね、周りには居なかったんで、だんだん話が合わなくなってきてましたね。高校の時から、映画にどっぷりハマって映画の評論を書いたりとか、ロゴタイプを真似して描くとか。デザインにもハマってて、「ポセイドン・アドベンチャー」とかあるじゃないですか?あのロゴなんかを必死に描く訳ですよ、そっくりに。映画と同化したいっていうか、授業中にそればっかりずっとやってるんです。
――:へー、どっぷりだったんですね。
田井:そう。だから学校の成績はどんどん落ちますよね?でも、全然平気だったんですよ。その頃の自分は何か「やればいつでも出来る」っていう気持ちがありましたから。


――:その頃ですか?「湯布院映画祭」に関わる事になりましたよね。
田井:留年しちゃってて、20歳ぐらいの頃ですよね、当時は自主上映なんかもやってましたから、現在も湯布院映画祭の顧問をされている中谷健太郎氏から「映画祭をやろう」っていうお声があり、湯布院映画祭の“顔”でもある伊藤雄さんと三人で「あんな事も、こんな事も出来たらいい」って中谷氏のお宅で話し合ったんですよ。そして、「じゃあ実現しよう」って事になって。
――:スタートってそんな感じなんですね。
田井:う~ん、まあそれは好きな事をやってるだけですから。楽しいですよね。でも最初はねぇ・・町おこしの為にやるとか・・そんな考えは一切ないですから。ただ好きな事をやっているだけなんですよ。
――:映画祭に関わっている間、学校はどうされたんですか?