イズム_今月の会いたい1/4
有限会社リミックス代表永田耕一さん
    豪華プレゼント

有限会社リミックス代表取締役。99年、大分県日田市にアパレルセレクショップ「HEART」をオープン。10年間で県内7店舗まで拡大。一昨年、日田市の観光地豆田町にロールケーキ&プリン専門店「豆田ロール粋」の出店にも関わる。「良い接客とサービス」を信条にバイタリティー溢れる永田氏に話を伺った。

――:初めまして。今回は宜しくお願いします。しかし、日田は大分市内と比べて暑いですねー(取材当日30度を上回る)
永田:そうですね、大分と3〜4度は違うんじゃないでしょうかね。こちらに来られる際に暑さがジワジワと伝わりましたでしょ?
――:ええ、やはり内陸部はさすがに暑いなと。日田は全国ニュースに見ても必ず最高気温○○度って出てくるし(笑)。
永田:ええ。まあ、でも盆地ですから朝晩だけは冷えますけどね………だから洋服選びって悩む土地なんですよ。
――:なるほど。その辺りはアパレルをされている永田さんにアドバイスをお聞きしたいところですよね。さて、本題にいきますが、永田さんは日田市のお生まれなのですか?
永田:いや、生まれは熊本なんですよ。小さい頃、こちらに越して来たようですが記憶は全くないんですけどね。
――:いくつぐらいに?
永田:2歳か3歳ぐらいだと思います。高校までずっと日田で育ちましてね。
――:それから県外に出られて。
永田:ええ、大学は東京に行ってまして、ストレートで卒業して就職は福岡市だったんですよ。
――:80年代ですよね。福岡では何を?
永田:岩田屋さんでバイヤーをやってましたね。あとワールド(アパレルメーカー)にも少し在籍してました。まあ、その頃はいわゆるバブルの頃ですから、今では味わえない良い事も悪い事も勉強できた時代だったと思いますよ。
――:その頃って、福岡の街は勢いありましたよねー。
永田:ああ、そうですね。私がちょうど平成元年入社ですから……当時のディスコ「マハラジャ」なんかもKBCの横にオープンした頃で……。親不孝通りには「マリアストリート」なんかもありましたね。90年代に入ってダイエーという球団をもった頃でドーム球場も出来たし、「イムズ」「ソラリア」「キャナルシティ」って百貨店や商業施設がたくさん生まれていた頃ですよね。
――:大分からも交通機関が整って短時間で行けるというか。
永田:高速道路が出来た頃でしたしね。でも、27歳だったかなー?岩田屋を退職したんです。それから2年ぐらいは福岡に残っていて色々な事をしていて、30歳を前に日田に帰ってきたんですよね。
――:何か目的があったのですか?
永田:やっぱり洋服屋さんをやりたかったんですよね、小売業を。だから起業を考えてて……東京じゃコスト面を考えてみても厳しいし、やはり生まれ育った九州でと考えてて。でもほとんど貯金もなかったですから……。ていうか身内の会社が倒産したりしてて大変だったんですよ、住むところもずっと借家住まいだし。
――:いきなり洋服屋さんて厳しかったのでしょうか?
永田:ええ。借金もありましたね。だからまず、起業するからには何をしようかと考える毎日でしたね……ウチの親父が地元で塗装屋をやってましたから、まずはそれを手伝う事から始めたんですよね。
――:ええ。
永田:その塗装屋をやりながら……1年間ぐらいですかねー、頑張って借金もそこそこ返済出来てたんですけど、かわりに友達にもほとんど会わなかったし、飲みにも全く行かなかったですし……。あの頃は色々と考えさせられる時期でしたよね、自分自身を。
――:どういった面で?
永田:自分で言うのも何ですが、大学も就職もエリートでいけたんですよ。こんな田舎から東京の六大学に進めたという……就職は岩田屋というブランドもありましたしね。当時だったら六大学かコネじゃないと入れないところでしたし。……でも、それが帰ってみたら「無力の自分」っていうのを嫌というほど気づかされる毎日でしたから……。あの時かなー?初めて自分の無力さに号泣したのって。
――:ああー。
永田:だから自分で何か出来ないか?ってずっと考えてましたね、1円でも稼ぐ事を。
――:なるほど。何か変化がありましたか?
永田:塗装屋の事務所にしている所に倉庫があったんですが、そこで何かできないか……?って考えてて。……まずは2坪の敷地でクレープ屋さんを始めたんですよ。近くに学校もありましたし、人の流れはありましたから。