シネマ5代表田井肇さん


田井;卒業しましたけど、就職なんかは全く考えておりませんでしたね。湯布院映画祭もあるので、大分は出たくないけど家は早く出たいっていう思いもありましたから・・自分で何とか食っていかなきゃならないので、塾の講師をやり始めたんですよ。経営っていうか、寺子屋の延長みたいな感じで小さい所でやってたんですよね。・・僕はこういった事に関しても長けていたんです。個人的には凄く数学が好きなんですけど、教えた子が「数学で一番になりました」って言ってくれたり。
――:講師としてやっていこうと思ったんじゃないですか?
田井:思わなかったですね・・。僕は映画中心で考えてたんで、他のことやってみたところで自分の能力なんてたいしてないのは分かってましたから。まあ、そんな感じで食いつないでいる間に、出入りしていた「大分映像センター」を経営されていた方が亡くなられて、誰か運営しなきゃならないって時に僕が引き継いだりとかして。
――:はい。
田井:そこは湯布院映画祭の事務局になっていたんで、皆の溜まり場だったし。何とかやっていかなきゃいけないから、学校の文化祭に16ミリ映画を貸し出ししたり、自動車学校に交通安全のフィルムを売るとか。そんな事を10年ぐらいやってたんですね。でもその傍ら、湯布院映画祭は十数年関わっていたんですけど――、袂を分かつという事になりましてね。
――:何か心境の変化があったんですか。
田井:そのあたりの経緯はあまり言いたくはありません。僕から言うと一方的になるので。
――:ええ。
田井:う~ん、何でしょうかね・・・・その頃の僕は、映画の事に関して「プロ」でありたいと思うようになってたんですね。仕事を持っていて、ついでに映画に関わっているという・・それが嫌になったんですね。「映画で飯を食う」っていう事を真面目に考えるようになってきた。昭和50年代にはマスコミの方から、湯布院映画祭の記事を取り上げていただいたりしましたが、それは「田舎の若い人が儲かりもしないことをやっている」っていう形でしか表現されてないんです。「都会でお金持ちが儲けの為にやってる」なんてマスコミはとりあげないでしょ?だから僕らはマスコミ受けしやすかったんですよ。僕は、東京だろうが地方だろうが、そんなことに関係なく、真っ当な評定を受けたいなと。ダメだという事も含めてね。・・・・東京が優れてるなんて全く思ってないですからね。
――:正当な評価を受けたいと。
田井:ええ、そうですね。まあプロっていう肩書きで存在したいな・・って思ってましたから。


――:そして、現在のシネマ5からのお話が来たんですね?
田井:そうです。まあ・・19年前ですが、前の経営者が「商売になる映画がないので閉館する」と言ってまして・・でも裏を返せば「商売にならない映画」っていうのは、いっぱいある訳じゃないですか?大分で上映されない映画が・・だから、やらせて下さいって言って、始めた訳ですよ。前経営者の方は「どうせダメだろ」とは思ってたんでしょうけど・・、僕自分もそう思ってました。ちなみに最初の軍資金っていうか、スタートの資金は390万円ですよ。僕が考えてたのは、年間130万づつ食いつぶしても、3年は持つかなと。周りには、こんなタイプの映画館は100万都市でしか成り立たないと言われていましたし、正直、私自身そう感じてましたしね。・・だから、思い切って3年やって・・そして・・せめてね、やるのは3年でも、人の記憶の中に10年は残るっていう映画館にしたかったんですね。
――:でも・・3年目以降は考えなかったのですか?
田井:考えなかったですねぇ・・どうなってたんでしょうかね・・ダメだった場合は。分かりません。ただ目の前にあることをしっかりやろうと。そして、プロとしてやる上は「常にチャレンジする」って事が大事だと。挑戦しなかったらヤメた方がいいですから。これで良しという気持ちを持たない、それこそがプロです。
――:はい。
田井:この最初の3年間は、最も潔く、美しい時期だったですね。――でも・・まあ・・そういった時期がずっと続けばいいかっていうと、そうでもないですけどね。――当初は「この映画を観てほしいから映画館を続けたい」っていうことが、いつのまにか逆転して「映画館を存続する為に映画をかける」って事になる訳ですよね・・しかし会社であれば・・これはある一定期間を過ぎれば必ず起こります。例えば、SONYの最大の目標はなんでしょうか?――それは「SONYという会社を続ける」事ですよね・・たぶん。・・それは悪いとは思いません。・・でも、最初の3年間は「この映画を上映したいから、映画館をやっている」っていう気持ちだけでしたから、それは確かに潔くて、美しい。
――:なるほど。
田井:でも、「美しいばかりが人生じゃない、濁っているのも人生じゃないか」って、僕は感じるので「美しいものが全て良い」とも思ってません。そういった意味も含めて、その最初の3年は潔くて美しい時期だったかなと。