1982年、大分市府内町に誕生したトスカンパニー・代表の西村偵紀さんは、路面店という概念がなかった街並みにセレクトショップを次々とオープンさせ、ファッションの多面的な楽しみ方と街並みの回遊性を提案してきた大分市のリードオフマン的存在である。本人曰く「ただ、好きなことを追求してきただけ」と語るが「個性あふれる街並みと、豊かな生活文化の創造に寄与していくこと」を信念に活躍されている。
――:お越しいただいて光栄です。私は個人的に西村さんのファンですので、色々とお話をお聞かせいただけたらと思ってます。
西村:ああ、そうですか(笑)。ありがとうございます。
――:先日も長浜町で偶然お見かけしたのですが、何かスポーティっていうか・・、日焼けされているので、身体を鍛えているのかなー?なんて思ってまして。
西村:うん。もう20年ぐらい筋トレしてる。コンパルホールが出来た頃から始めて、最低週2回はジム通いしてますよ。昔は海にもよく行ってたけどーー、今はテニスだね。県が主宰している試合などに出て、高校生といつも試合してる。
――:すごいですねー。じゃあテニス焼けですか?
西村:そうそう。テニスをやっている時は楽しいね。でもストレス解消のつもりで、ジムとか通ってたんだけど、逆にストレスになっている時も(笑)。義務感っていうか、そうゆうものでね。
――:でも20年も続いているのはスゴすぎますよ。今の若いコたちに崇拝されますね(笑)。
西村:途中でやめられる性格じゃないからね。何かもったいないじゃない?せっかく鍛えてきたのに全部無駄になっちゃうじゃない?そこが妥協できないっていうかね。
――:見習わせていただきます(笑)。では本題にいきたいと思いますが・・、幼少の頃って大分にいらしたのですか?
西村:いや、鹿児島生まれなんですよ。市内じゃなくて指宿市(いぶすき)でね。中学に上がるぐらいまでだから10年ちょっといたかな。それから親の仕事の関係で東京に行くんだけどね。
――:薩摩っ子だったんですか。
西村:そう。まあ薩摩っていうと、明治維新の頃まで遡れば、西郷隆盛や大久保利通が当時の日本政府をつくった張本人たちでしょ?だからそういった歴史は、根強く残っている土地だよね。私が育った指宿のとなりに加世田っていう町があるんだけど、そこは当時の志士達が中心に動いた町だから、今も維新を起こした自負みたいなものは深く残ってるみたいだね。
――:一度は足を運んでみたいですけどね。鹿児島県は現在、人口60万ぐらいの街ですが、大分と比べてかなり違うでしょうか。
西村:市内の繁華街なんだけど、天文館って知ってるかな?平日の夜9時頃でも交差点に若い女の子がズラーっと並んでるもんね。信号が青になるのを待っててさ。平日の夜9時に、府内町や中央町でそういった光景はないよね。都町に行けばあるかもしれないけどーー、大分は45万人くらいで、街の造りも違うから、夜の雰囲気なんて全然違ってるよね。
――:幼少の頃、鹿児島でファッションなどに感化されたことなんかあったのでしょうか?
西村:なんにもない(笑)。戦後だしね。
――:東京に出られてからですか。
西村:もちろん。鹿児島の指宿という田舎から10代で東京に行ったじゃない?だからティーンエイジャーとしては全てが刺激的だったねー。自然に街にいると何事にもどんどんと感化されていったね。私が17~18歳の頃・・・60年代だったかね~?自分は行動派タイプだから銀座や新宿のACB(あしべ)とか渋谷のマリンバや上野のテネシーなんかによく通ってたね。
――:どういったお店なのですか。
西村:うーん、今で言う・・ライヴ・・ライヴ喫茶なのよ。
――:ジャズ喫茶のような。
西村:そーそう!昔はジャズ喫茶って言っててね。でもジャズ演奏してる訳じゃないのよ。