ノブカークラフト代表姫野信夫さん

1986年4月、大分県佐伯市に『カーショップノブ』として開業。タイヤホイルやカーオーディオなど、車のカスタマイズに力を注ぎながら、独自性のある店作りを目指す。1992年には念願であった大分市(大分市古国府)に移転し、社名をNOBU CAR CRAFTに変更。県内外のドレスアップイベントにも積極的に参加し、福岡オートサロンで数々の賞を獲得。最近は大阪オートメッセにも出展。

国道10号線を大分駅から府内大橋方面へ車で10分ほど進むと、車好きなら誰もが知っている「NOBU CAR CRAFT」の看板が右手に見えてくる。カスタムカー、エアロパーツなどのオリジナルブランドを販売するカーショップで、代表の姫野信夫さんは、ノブさんの愛称で親しまれ、若い世代からの信望も厚い。大分市を拠点として幅広い活動を続けるノブさんに、起業から現在までの想いを熱く語ってもらった。

――:よろしくお願いします。堅苦しいのはやめて、皆さんがお呼びしているようにノブさんでいかせていただきますね。
姫野 (通称ノブさん):はい、どうぞ。
――:まずはご出身が臼杵市のようですね。子供の頃はどんな感じでした?
姫野:小さい頃・・、すごい山奥でしたから野山を駆け回り遊んでましたよね。いたって普通の子供でしたから、車に特別の思い入れのある環境があった訳ではないんですよ。
――:車のプラモなどを作りまくる子供ではなく(笑)。
姫野:ですね。だけど男ですから16歳でバイクの免許が欲しくなって18歳で車の免許をと・・、普通の流れです。
――:徐々に自分が出来上がってきて。
姫野:ええ。免許を取る年齢ぐらいから目覚めてきましたよね。夜遊びをする手段として、バイクや車は重要なツールで・・(笑)。そんな青春時代を過ごしながら、車好きになっていった感じですよね。
――:(笑)。何か今のノブさんから想像できないですね。その頃って言えば、年代的に矢沢永吉さんの世代でしょうか?
姫野:そう!(声が大きくなる)ですね。まさに成り上がり世代ですね。キャロルの時代から影響されましたよね。やっぱりある意味、あのサクセスストーリーが僕らにメッセージとしてあって・・典型的な成功者に見えてましたから・・あんな風な生き方をしたいと思ってましたよね。また、年齢的にも誰かに影響されやすい年頃でもありますし。
――:かなり影響されましたか。
姫野:永ちゃんの歌は、キャロル時代を含めて全て歌えるくらいですから(笑)。その後アメリカに渡っていったでしょ?カッコいい生き方の象徴ですよね。フォークソングとかもありましたけど、僕らの世代は永ちゃんに触れている人は多いと思います。今でもカッコいい生き方していると思います。
――:MADE in USAに強く惹かれてた世代でもあったでしょう?
姫野:メンズクラブやMADE in USAの雑誌1&2は持ってましたよ。影響はかなり受けましたねー。リーバイスの501やワークブーツであったりとか・・。だからその当時の思い出が(店内のアメリカ物のディスプレイを指して)コカコーラだったりとか。その頃はお金がなかったから買えなかったですけど、現在のお店のディスプレイはその雑誌に載っていたテイストの物ばかりですね。憧れがあったし、遠い国でしたからね(笑)。気軽にアメリカに行けることはなかったですし、今みたいにネットで何でも買える訳じゃないから雑誌を見て想像を膨らましてましたね。
――:本当にアメリカ物って特別ですよね・・。さて、お店を出されるまでどうされてたんですか?
姫野:20代前半まで、会社員で何年か過ごしていたんですよ。車も乗っていましたが、自分でカートをチューンナップして、レースなんかもやっていたんです。結局、機械いじりが好きだから、時間がある時はカートもしているカーショップに行って手伝ったりしてましたね。
――:それが独立までに至るきっかけは何だったのでしょう。
姫野:20代だったんですけど、何か自分でしてみたいという漠然とした願望がありましたね。何故そう思ったかというとーーー20年後の自分がそこ(職場)に居る訳ですよ。
――:あーなるほど。上司や先輩を見て。
姫野:そうそう。20年後、30年後の自分がそこに居る。失礼ですけど『自分はやれない』という思いの方が強かったですからね。仕事をして3年、5年っていう節目はありますけど、20年後の自分はこの姿いやだなと。それだったら自分で何かやってみたいと思いましたね。2~3年は模索するんですけど・・夢が・・なにか・・所詮は夢の中での空想ですが、実現できそうに思えるんですね。「何でも俺はデキる、ヤレる」って。